昭和40年8月27日 朝の御理解 ★
信心の芽が出たら、それが花になる所まで信心辛抱させてもらわなければならない。折角信心をさせて頂く、信心の芽が出るのでございますから、その芽が開花する、ね、花になる所まで信心の辛抱させてもらわにゃあいけません。信心辛抱さえしておれば、物事整わん事はない。いわゆる、物事整う所まで、辛抱させてもらわねばいけません。
次には( ? )が結実する、その花が、実りになる、というところにおかげを頂いていかなければならん。もちろん、実ると言うことは、御徳を受けるということだと思う。花が咲くのと実が実るというのであってはならぬ。あだ花であってはならぬ。それこそ、あの、先代の時、あそこのお父さんだった時には椛目でいうなら総代まで勤められた。ところが、子供になり孫になったら、信心も衰えとるごたる風じゃが、家も取られたというなことになってはいけんですね。これは、総代でも勤めるときからには、やはり一花咲かせた人たちには違いはないと言う事。これは、私が知っておる限りの教会で、知っておる限りのご信者さん達の中に、もうその傾向が多いのに驚くほどです。
いわゆる、信心辛抱させて頂く、それでも、やっぱりその、ざっとしたことじゃない。ね。信心辛抱し抜かせて頂いて、本当に越せない所を越させてもらい、助からん所を助けてもらい、ね、そして、なんなく、御用でもさせてもらわねばならんというて、世話人だ、御用、おー、そのー、総代だというような、御用を頂いて、ところが、子供になり孫になっていったら、あー、そういうおかげにならん。それとは反対のことになっておる。ね。家までなくなったとはいかんでも、家に御まつりしてある神様はもうほこりだらけといったような、家庭が沢山あるという事ですね。ですから、私共、やはりおかげを頂く為に、信心辛抱し抜かせてもろうて、もうおかげをしていいと。おかげ、だからその、このおかげを頂いたら、花が咲いたら花だと見とれておらずに、本当にそれが実が実っていくというようなおかげに、してもなるおかげを願わねばならんと私は思うのです。
★ 私今朝、ご神前に出させて頂いたら、丁度その、扇子ですね、あー、んー、ここのところの、こう( ? )書いてあってね、かみだけがこう書いてあるところを頂いた。こう扇形にですね、ここだけが、ここに紙がこう、これは銘々のことでもあろうけれども、まあ、椛目全体の事でもあろうかと思う。神様がおかげを下さろうとするまあ「じ」だと思う。こういうおかげを下さろうとしておる。もう、この末広の要ですからね、扇形にこう、何かに額にでも表装するならそのまま表装できるといったような、その、感じなんですよ。
ほいで私ただ今の事を、申しておるわけでございます。ね、花が咲いた信心辛抱させてもろうて花が咲いた。その花がいよいよこの実りになっていくようなおかげを頂く為に、何時でしたか私、久留米、石橋先生が久留米に出ました、あー当時頂いたご理解でしたが、あー、
「かげは神が(?)とする。氏子は心を削れ」
とこう仰る。ね。( ? )うっちゃない、紙がただあるだけの事。神様がまだおっては下さっていない。ね、扇子をあの、「扇おり」というのがありますよね、あの、扇を折るということ。こうして、おらなければならない。だから、折るのは神様がおって下さる、かみは神がおるとこういう。だから、それは氏子が心を削るのは氏子でなからなければならん。どうでしょうか、みなさん。私共の心の削るような時に神様がその、神をおって下さるんではないでしょうかね。末広と言うことは親の代より子の代。子の代より孫の代という事だと私は思うですね。お互い私知っておるかぎり、ただ今申しますような、先代、初代、またはお父さんお母さんの代には大変な熱心な信心ができたというおかげを受けたと、いわゆるまあ信心によっておかげを受けておる、花が咲いておるだけのことではないだろうか。扇形の紙が頂いたということは、ですから、これが本当に私は花が実になるところまでのおかげを頂く為に、これからが、本当の信心をさせてもらわなければならんとこう思う。
そういう意味合いで椛目の方達の場合はです、ね、おかげを頂いておると思うのですね、椛目にご縁を頂いておる人達。私はその椛目に10年も20年も参りよるばってん、これちゅうおかげを頂いたことなかちいう人は、なかろうと思う。どの人もこの人も、本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行くことじゃなかったと、いうようなおかげを誰でも頂いておると私は思う。だから、離れるにも離れられないと私は思う。ね、場合にはない命を助けてもらい、大難を小難でお祀り替を頂き、開けぬ道を開いて頂いて、そういう意味合いにおいてのおかげは私は、椛目に5年も3年もいうならおかげを頂いておる人たちならばです、みんな頂いておると私は思う。そのところはやはり信心辛抱をみなさんなさっておられる。いうなら、(?)このかみがたのおかげ、そこまではみなさん、頂いておられるのですから、だから椛目の方達はそれから咲かぬ事が実は私は大事だと思うのです。
おかげを頂けぬ事を思えは文句は言えんとじゃん。ね。だから、そういう信心がなら、皆さんが一代、一生懸命つめたところで大したことはないということになるです。ね、これから先が、いうならば氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのはこれから先だと私思うのです。真実の幸せもいわゆる肝心要、扇子でいうならば。要のところの信心をさせて頂くということ。
ね。そして段々、信心させて頂いて分からせて頂いたことは、あれが悪いのじゃない、私が悪いのだというような見方考え方はも身についておらねばならんという事。世の中でも同じ事。( ? )おいても同じ事。( ?)同じ事。( ?)同じ事。しゃっち先方のほうが傷つけなければ気がすまんという人たちがおる。「あれがもうああじゃけんうちがこうなったといったような意味。」例えば、生涯ひっかけられずにすむか、あれがひっかけたからうちが困るとこういう。ね。ひっかけられないもとは、考えずに、難儀になる、困るという事の元は考えずに、向こうのほうへそれを、向こうのせいにするようなことでは私本当なおかげは受けられないと思う。ね。もう本当にこの辺がね私しゅっけしなければ、信心頂いておる値打ちはないと思う。そこからです、いわゆる私は身を削り心を削りして、いく。そこに神様が神は神がおるというおかげを下さる。そこで私共がそういう意味合いにおいてですたい、はたして、身を削り心を削りといったような、信心が出来ておるだろうかと、出来ていないと私は思う。どがしこでん削りよる、どがしこ心を削りよるか、ね。ここの所に私は、末広のもと、ね、親の代より子の代という、おかげになっていくもとがあると私は思う。「身を削り、心を削り」どれだけ、身を削りよるか。削るよりは、自分だけがこうやって、もう、自分だけが楽しようとしよる。自分だけが( ? )としよる。ね。
どれだけ、心を削ることに努めよるか?ね。どれだけ、いわば心を本気で改めていこうとしよるかということ。改めると言う事は取って除くという事。これは心を削る事。ね。身を削ると言う事は、例えていうならば、三度の食事は二度にせろという事じゃん。どうでしょうか、今度のご造営が始まってから三度の食事ば二度にするといったような意味合いにおいての、修行が出来よる人が何人おるだろうか。食べるとは当たり前、腹はまず、栄養をつけなければ体が持てん。いいですか?おかげを受けると、おかげを受けると言う事は、信心辛抱させてもるおて、こげんやってお参りをさせて頂いて、お取り次ぎを頂いてお願いをさせて頂いて、開けぬ道を開かせてもらい、助からん所を助けてもらい、ね、そういう、おかげはここにおるものの一人一人が頂いて( 録音不良 )。
そこで、神様の有り難いということが分かると。いうなら、( ? )が( ? )と。ね。ですから、私はそこまで出来ておるかとして、今日の御理解を聞いて頂いておるわけです。これから、どれだけ自分が身を削らせてもらうか、心を削らせてもらうかと。
命より心を削らせていただくという事。ね。御造営が始まってこの方、これこれのご造営のお供えをさせて頂いておる。ね、それくらいのことがです、今までおかげを頂いて来た事自体が、身を削っておるからと思うたら大間違い。ね。身を削らせてもらう。心を削らせてもらう。ご造営が始まって、ね、もうこの事だけは、これを境に改まらせて頂いたと、というようなものがです、出来るところに、自分自身も楽になる。身を削らせて頂いて、いわゆる贅肉を削らせてもらう、贅沢だけは当たり前にしよる。そして、おかげだけは頂かないかんとばっかりいいよる。そういうことでは、私はおかげを受けても私は身になるようなおかげは頂けん、いわば、末広的なおかげには頂けんと私はこう思う。まあ、私はこげんいいよると花も実もないような言い方ですもんね。私の表現は。ね。けれどもね、私がこういう風に表現しなかったら、はっきりせん。話が。皆さんが御用の事にひとっつも精進しよらん言い方ですけれどもです、神様からみれば、昨日の御理解ではないですけれども、上からみれば穴ばっかりということよ。 だから、私も皆さんもですよ、横から見よるとじゃけんそりゃ(?)に見えるでしょう。けれども、上から見たら穴ばっかりだと。自分自身の心の中にこういうようなあり方、こうような生き方、ね。が徳を受けれる、いく道だというようなです、信心をさせていただかにゃいけん。
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